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建築中心

停車駅としての出会い

出会いというのは正に偶然性の賜物であり自己を相対化する劇薬だなと最近とても感じる。最近ますます他人と会話する事が無くなった僕だか、つい最近久しぶりに友人と朝まで飲み明かす事になり、ますます改めて友人達の人間性に尊敬したものだった。そんな時風俗発言でおなじみ?の西村さんの小説・『苦役列車』をみて、西村さんと正反対ともいえる生き方をしてきただろう東さんの著書との類似性に気づかされたのであった。(だから人間はすごい)

感想を読書メーターから引用すると

‘‘諦観と達観をもち自己を記述していく過程の中に、全ての人が持ち合わせている性質(怠惰や嫉妬など)を浮かび上がらせながらも、その性質の不可変性を強く感じた作品。つまり苦役列車というのは常に自己を枠付けるものとし、内部からではその存在自体も見えない、またその列車を相対化する機会である停車は不可逆的であるし、予測不可能な千載一遇(出会い)に投機せざるをえない。苦役列車は個人の一断片を捉えながらも、人間固有の共通の悩みをも捉えている。’’

つまりは東さんの弱いつながり=偶然的な出会いというのに投機せよというような示唆と僕は苦役列車を重ね合わせた。短い文章だったけれども人間がもつ固有のジレンマみたいなものをいかに対峙することが未来に対しての道を作るのだと思う。

 

四月は何故か分からないけれど毎年感傷的なってしまうので誕生日月を前に過去を振り返ってみた。

苦役列車 (新潮文庫)

苦役列車 (新潮文庫)

 

 

 

弱いつながり 検索ワードを探す旅

弱いつながり 検索ワードを探す旅

 

僕は友人にもよく言うのだが大学に入ってはじめて人間関係において悩んだ。

高校生の時は「大学受験」や「部活動」というような他人と共有できる目標が あったために、お互いの言語も似たり寄ったりで共同体の中で摩擦のない関係を築けたのかなと。もちろん、そのときも他人との間に齟齬が生じることは会ったのだが、少なからず大学で顕在化するまでは自己内省などすることなしに生きてきたのかと思う。

さらには僕はまぁ要領が悪く、浪人という道を半ば運命的に進むのだが、そのとき予備校にも行かず、自らの能動性のみで受験勉強と言うひたすら受動的な態度にならざるを得ない中、他人とほとんど関わりを持つ事なく自らの能力とはじめてと言っていいほど対面した。その結果大学入学時には見事なまでの負のオーラを纏い自己否定を繰り返すような人間に育ってしまったいたのだ。

そんな時建築に出会い、少しずつ夢中になっていくのだが、、建築は社会的な実体そのものなので、自己の社会に対しての態度を少なからず反映させる媒体にもなってしまうので

嫌でも僕は自分の経験や思想だったりに対して再び対峙する事になってしまい、しまいには自らの考えが正当であるとした態度で人の事を見てしまったり、自己保身のための自己欺瞞をしたりをした。

おそらく多分友人からは考え過ぎだとか言われるかもしれないが、少なからず自己否定を繰り返しながらそれを糧に自らを奮起させていた事に慣れすぎて知らない間に自らを『苦役列車』のような枠組みに捉えられたのかもしれない。(分かりにくいけれど、感覚的に・・・・)当然のことながら友人と意見が合わない事が多いにあった。そんな時ものすごいフラットな視点で友人を見ると僕には到底出来ないことを色々している事に気づかされる。そんな時僕は今までの自分のパラダイムがとってもちっぽけなものに感じ、自己を内省しはじめる。今までにない価値観が自分の中に生まれ始めるのだ。

この時大事だと思ったのは、自己否定はしないという事。自己否定は同時に相対的な価値観を見せてくれた他人の否定でもあるからだ。来月で二四になるが、また新しい出会いを求めに自分から行こうと思う。

これはかなりつまらないブログになってしまったが、こんな事を気づかせてくれた関わってくれた全ての友人に感謝したいと思う。