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建築中心

『建築に内在する言葉』坂本一成 読書感想文その2

「建築は環境である。」という類いの言葉を用い坂本は建築はそれ自身対象物ではない状態を獲得したとき初めてある固定化された概念の枠組みから外れると説明している。(と思う。)

 

環境とはいわゆる工学的な環境と言う狭義の意味ではなく、自分が今いる様々な事物の関係性の上に成り立つ世界そのものであるが、我々はその世界の全体性を知覚する事はほとんどなく、ほとんど無意識的にそれらと同居している。それら事物の構造が顕在化する時というのは我々が、それ自身を『対象』として扱ったときである。対象物とは不思議なもので、なんらかの意味が必ず後から付着してくる。

 

坂本が家の素材にたいして同一の着彩を行うという事は、ある種、素材という対象物に対し捨象を行うと言う行為であるが、坂本自身その行為自身がまた新たな意味を付随させる行為他ならないというアポリアを抱えてしまうのである。

 

意味の零度の不可能性を自覚したまま、彼は事物が持つ『図像性』 に着目する。

図像性とはゲシュタルト心理学から生まれるイメージのようなものである。例えば我々はある「対象」が住宅だと知覚するのは、「家型の覆い」や「ベランダ」などの二次元的な物理的な情報とそれが持つ文脈上でのコモンセンスとして意味を汲み取るからである。

建築のシンボルとはまさしくこの象徴的な効果を利用していることが言えると思う。

例えば、人々は六本木ヒルズを見たときその二次元的な情報と共にに「金持ちの場所」というようなコノテーションを得る。

 

「対象」というのはこのようにある固定化されたイメージを付与してくれる、故に人はそれに対峙した時、その意味作用から解き放たれる事が無く、それがもつイメージを抱え込みながらの思考をせざるを得ないのである。

それを坂本自身は商品住宅が持つ「近代家族」というイメージ自身を消費者はのぞんでいるという背景を例に説明していた。そのとき坂本は家をつくるとイメージそのものを抱えながら設計してしまうので、それらを抱え込まずにある物理的なエレメントの「関係性」のみの構築に従事し「環境そのもの」を形成したのちに事後的にそれらが住まいとしての場として成立すればよいという考えなのだろう。

 

いずれにせよ、物理的なエレメントの「関係性」それ自身も人為的なもの他ならないのであり、それらの論理をどう形成するのかとても気になるところである。

 

あー坂本さんの住宅に行ってみたいなぁ・・・・。