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建築中心

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 入院中の読書

都市をたたむ  人口減少時代をデザインする都市計画

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

 

 ★・・・3.8

専門書!!って感じではないけれどとても分かりやすい本だった!

とくにスポンジシティの概念は一番注目かな。

 

形の合成に関するノート/都市はツリーではない (SD選書)

形の合成に関するノート/都市はツリーではない (SD選書)

 

 ★・・・3.5

 表現が難しい。が「無自覚なプロセス」自体、とても多様な物事に通底される。とおもうのでかなり良い勉強に

とんび (角川文庫)

とんび (角川文庫)

 

 ★・・・3.1

昭和時代の寡黙で不器用な男性像が平成生まれの僕にとっては?となることも多いが、

子、父親、または血縁関係ではない実質上の親子など、そこには愛があり愛ゆえに、優しくなれない。なにか人間の「わかるなー」という部分を描くのが本当に上手だなぁと思いました。

 

ヘヴン (講談社文庫)

ヘヴン (講談社文庫)

 

★・・・3.9

絶望的ともいえるいじめられっことそれをとりまく人たちの絶望的といえるくらいの考えの隔たり、「正しさ」なのか「無意味」なのか

そのパラレルでもある同時に存在する問を今更ながらつきつけられるし、

「強さ」とはなんだろうか。 

 

心屋仁之助の「もうイライラしたくない!」と思ったら読む本 (中経の文庫)
 

 ★・・・3.0

 

・「ちゃうちゃう」

・たりてないから恐い

・自分の狭いルールを本当かと思う。

 

JUN AOKI COMPLETEWORKS |3 | 2005-2014

JUN AOKI COMPLETEWORKS |3 | 2005-2014

 

 ★・・・3.6

 

デザイナーを目指す人なら誰もが抱える「モダニズム」それ自身が

個別的な価値観を疑い続けることといったところ面白かった。

モノではなくククリというのは本当に分かる。

ただ何故伊東豊雄のメディアコスモスが彼の中で響いたんだろう。(公共建築をやっている同士なにか感じるものがあったのだろうか?)

 

「ポケモン化する建築」とその先

最近少し思うこと。をつらつらとかこう。(内容堅すぎると思います)

 

建築が個別的・固有的になっていくのは、ある種必然だ。

 

戦後GHQによる農地解放から敷地またはその土地活用は市場というレイヤーの中でプレイヤーを増やすために現在に至るまでセグメンテーションを起こした。都心における大規模開発さらには郊外のミニ開発もその動態の一端と言えるであろう。

その結果としてトップダウン的な近代的計画に対してのボトムアップ的な自己組織化ともいえる状況が起こった。例えば仙川の住宅地における個人商店の増加など、個人の多様な生き方に対して複数の場を市場によって再帰的に還元されることが可能となった。

 

この事は最もポジティブなことで、前近代の氏族社会では考えられない多様な紐帯が日常を取り巻くようになったといえる。

 

この歓迎すべき都市的な状況を建築におけるレベルにおいてどう考えればいいだろうか。

 

G・ベイトソンの言葉をかりると「建築は生態系のような」というようなメタファーに対しある種の体系的な見方を与えてくれるだろう。

それはジェネティック(遺伝的)とソマティック(体細胞的)というような二つの論理階型の異なる情報選択プロセスを当てはめれば建築の構成もある一つの流動的プロセスの中で「不変である部分」と「変化を要請される部分」で成り立つことが浮き出てくる。

人間の身体が例えば高山において体細胞的な変化を強いられ心拍数の調整をする場合

その変化された情報自体が、直接的に子に遺伝されることはない。(大げさに言ってしまえば高いところにある物をとるために片方の腕がのびてしまうようなことはないのである。)

このプロセスの中には遺伝的な情報自体が持つ検閲システムが体細胞的な変化の情報を取捨選択することにより遺伝的な身体を統御する回路がある。(のびきった腕は他の生活にとても不便になってしまうので、より普遍的な身体を維持しようとするのである。勿論アスリートの身体的情報が幾分か子に引き継がれることはあるが、その内容としてあまりにも特異な情報は淘汰されていくのである。)

つまり体細胞的な変化自体がある特異な環境のもとドライブすると他の環境の元では生存しづらくするということを避けるために統御しているのである。ここまでは一般的な生態系の変化のされ方だが

 

再び建築にそれを当てはめるとどうだろうか

建築においてはある個別の物語(施主のキャラクター)を引き受けるがあまり、建築が固有解になりすぎて骨組みや解法があまりにもシンギュラーになりかねない場合がある。

例えばゲーリーなどの作品においては

役物(一般的な建築材料ではなく特注のもの)が多く使用されるがゆえにその解法も必然的に他とは共有し得ない固有の解となる場合があるとおもう。

また別の例としてメタボリズムが失敗したのはスケルトン・インフィルという骨組にあたるスケルトンがその建てられた当時の技術を必要とする骨組みの在り方にあったとされ、すなわち革新的に進んだ60年代における技術とのギャップ自体がその骨組みを即座に固有解となし得てしまったということなるのでは。

 

ここで建築がソマティックなレベルとジェネティックなレベルを持つと仮定すれば、人間の身体のように捉えることも可能だ。(もちろんどこがその閾値になるかは見方次第で大きく異なるが)誤解を招くかもしれないが、一つの建物の変遷を見た際は、不変となる骨組みを遺伝的なレベルととらえ、調光や採光などの外壁あるいはサッシなどは体細胞的なレベルととらえることが出来るかもしれない。(ただ最近ではメーカー自体の規格自体または環境性能自体が建物を規定している見方も同時に考えられるので、実際にはもっと議論する余地が残っている。)

体細胞的なレベル自体が建築を規定しているがために遺伝的なレベル自体の可変レベルを落とすことが大いにあると思われる。例えば、施主の特殊な与件を引き受けるがために特殊な構造や材料を用いるばかりにその骨組が無理をし用途自体が定まりすぎることも考えられる。(用途転換が不可能であったり)

つまり建築が固有の解答になればなるほどその形態がもつ柔らかさ(=他の環境に順応する可能性)を失いかねない。

 

とすれば、都市自体の物理的環境が建築というセルで担うとするならば、都市に対してなんらかの変化が与えられた時、それはそれぞれのセルに対し、個別の処方をしないといけなくなるであろう。

もし都市が次のフェーズに以降するとき一元的の手法で汎用的な状態することが都市の柔らかさにつながるのではないかと思っていた。(例えばこれはタイポロジーという意識をもつような連勇太朗のような手法自体にもみわれるような)

 

ポケモン化する建築とその先の都市はどうなるんや 

そして書いていて思ったのが(笑)

 

・ただ、ここで「共」を求めるのは今日的ではないのか。→社会共通資本の不可能性

・ただし、体系として「構築」することを纏めることは可能化なのか?→本当に個別解だとオナニーになってしまうよ〜〜

 

この二つの疑問だが、なんだか吹っ切れたような気がする。(ただしくはそんなもんは今は考えないようにする状態だけど)

 

というのも先日とある建築家の事務所にお世話になった。とても良いお話を聞けた。そして最近の情報と建築の動態にも関心が移ったので、

 

まずその話として

・住宅は現代においての減価償却は30~40年、その間にでも土地に少しでも愛着がでてくれば、つまり「人と建物の関係性」(改めて深いな、、)そうしたことが都市と繋がって行くようなそんな感覚が大事(主観です)

・自分たちのリアリティがいかに狭小で実は過去には様々な系譜があり、近代自体が若者のリアリティのほとんどを形成している。その中で既成概念をどう崩すかのチャレンジ。

もしかしたら社会って感じじゃなくなるかもしれない。

 

など文章では書ききれないくらいの、大人のありがたい言葉がしみました。。

とまぁ家を建てるプロジェクトはすごい滞ってますが、なんだかやっぱり楽しまないとと、思い。どう進めればよいのか模索中。。

 

あと先日『バンクシー・ ダズ・ニューヨーク』を見たが、まさに「都市はツリーではなく、セミラティス」であるということが分かった。そしてそれとつながるのが最近の新建築住宅特集2016年4月号の「HAGISO」の建築家宮崎さんのお仕事がとても面白いと感じた。

文化施設とその他の機能をネットワークするような感覚。

 

それで思ったのが本当は「建物の中だけを関係付けたいんじゃないんだよなぁ。。」というような感覚。

それは岐阜のメディアコスモスを見て強く感じたことを友人の門間氏に話したところ、実は連さんもそうゆう風に言ってたみたい。

 

文章めちゃくちゃ不連続な感じになったけど、これがいいのかなぁって。

昔から連続的な思考が身にしみてしまってどうやらなにか物語を描きたい病(言い訳にもつながるし、説明しやすいし)

だからなんでもかんでも、目標を建ててそれをクリアするまでやめない!!みたいなのはなんだか最近はどうなんかなと、(というか目標の建て方だろうね)

と色々考える。ぼくなのでした。

 

 

実は25日から一週間ほど入院(すごい軽いやつなんで心配しないでください。)するのでまた色々一人で物思いにふけます。

色々考えます。

これからの生き方について。

 

 

未来に先回りする思考法

 

未来に先回りする思考法
 

 ★・・・3.4

[ビシネス]

→テクノロジー自体がアーキテクチャーとなってきた歴史を追うことで

「点」ではなく「線」的にとらえることで次の未来を予測する。

→面白かったのはIT企業が地上600km以上の範囲に地球に電波を逆照射する話。

→原理から捉えることで、思考が整理されますよということ

→後半は実践たれというような話。合理的な判断というのは後からついてくる。

セヴェラルネス

 

セヴェラルネス 事物連鎖と人間

セヴェラルネス 事物連鎖と人間

 

 

これからブログに読書ノートを書いて行こうと思う。

備忘録として、あとは他のものを関連できるノートとして

 

まず7つの章で構成される内容だが、それぞれの賞についての考察

 

1、桂の案内人

⇒まず、章の最初にG・ベイトソンオッカムの剃刀を用いた「数列の例」があるが

それらはまず様々な数(具体の事物)の連続というのはあたかも一つの規則性に基づき進んでいるように思えるが実はその事物からは「有限の小径=セヴェラルネス」が与えられており、それらの中の一つの径をたどった結果にすぎないというタイトルの意味が与えられる。

 

ここで具体の例として中谷は「桂離宮」をあげ

磯崎の指摘を引用し事物を対象として挙げることは必然的に「両義性(真になり得ないもの)」がともなうとし、「事物の絶対的な存在」と鑑賞者との非対称性があるとし、

 

桂がもつシークエンス(数列)において案内人の存在がシリーズ=各空間(級数)がもつ小径を一元化していることを発見し、それゆえに再びその小径を解きほぐし書き換えることでまるで異なる空間体験を描いた。

 

つまりは「過去」自体がセヴェラルなパスの選択次第で意味が変様するという可能性を説いたと言ってよい。

 

2、ペリカン島戦記

 

最初に「事物の歴史」について

ジョージ・クプラーが述べる「事物」とは

”人間の観念とその外部にある物質の間に発生する現象である。"と

「有形=かたち」なものを媒介にし初めて観念が発現するということで例えば

ことばのようなそのものの「起源」自体が用法自体に何ら影響を持たないようなことをさす。

 

それに対しヴァージニア・リー・バートンの絵本『ちいさいおうち』では

おうちに焦点を合わせ、他の環境自体が変様してもそのオリジナル(起源)そのものは絶対的で不変というようなストーリーが展開された。

ここから読み取れることとして事物(建物)は一つの起源をもつが、それがもつ結末としては二つ、一つは保存そして二つ目は消去であると中谷は読む。

 

ただ、保存の際にオリジナルというのは果たして絶対的な観点はありえるのだろうか?中谷は作り手のコンテクストに限定されうるオリジナルへの傾倒への歴史学をあまり認めず、むしろ「ちいさいおうち」といえどもいくつかの「事物」の連鎖であるので、それらを紐解けば「梁」・「柱」・・・etcなどの下位のクラスターに分解される。そうした中無数のパスが描き出せることとなる、ではどのようにして「事物」が描き出されるのか。

中谷は次にペリカン島戦記についてしるす。そこではかたちを巡ってオリジナルというのが後に書き換えられるストーリー次第でいとも変様するという過程を描く。

 

3、建築職人ウィトルウィウス 弱い技術

 

ひとつの強いオーダー(秩序)によってかたちづくられる形態が「強い技術」であるとしたら、連続的な時間系列の中で段階的なコンテクストの取り方をしていくやり方を「弱い技術」という。

 

アナスチローシスはいわば「強い技術」に依拠した保存方法である。初期の形態を強く意識するあまり初期形態建設時の技術自体に束縛される。日本でいうメタボリズム運動もある種のアナスチローシスに陥ったと言ってよい。動的な技術革新による躯体の陳腐化を認めざるをえないがために、スケルトン自体の冗長がなく、他の技術の連関をも断ち切って保存という道程しか描けなくなってしまう。

 

反対にポンペイの壁は実は「弱い技術」で形成されていた。段階的なコンテクストの変化に対し一つの壁はある複合的な手法の時間的堆積が伺えた。

日本におけるトタンの使われ方もまた一つのそれであろう。

 

ウィトルウィウスが建築書の中に広範な知識(天文学など)を含めたのはコンテクストが変化するたびに他の技術との契約関係が変化する、「弱い技術」そのものを描きたかったのではないか。

 

・・・・長い。笑

ちょっと書き方をかえよう。

 

特に印象に残った部分だけにします。

ということで一番興味深かったのは

 

5章の自尊心の高い少年だ。

 

アレグザンダーの「都市はツリーではない」

セミラチスの計画不可能生を認めながらも、結果的にはツリーの集合体である都市からセミラチスな体験がなされるプロセスが非常に面白い。

そこには人がツリーに対してのフィードバック行為を行いアンサンブルな関係=サイバネティックを実現していること(無自覚なプロセス)

デザインはその(無自覚なプロセス)と可視化された問題(不調和・差異)との動的平行関係をしめすということ。

 

うーん、アレグザンダーをもう少し勉強しないとわからないな。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

非人間的なるものへの闘争あるいは従属

2月24日に門脇研のM1で自分達の建築論を語る会があったのだけど、色々思う事があったので忘れないうちに書いて行こうと思う。

 

まずメンバーの大まかな論点を思い出すため、それぞれの感想を書いて行くと

 

(タイトル忘れたので、自分でつけます)

 

箱崎南相馬被災地における現状と、それに対しての建築的解法の可能性と実現性」

⇒避難地域のバロメーターが従来の管理体制によるもので、それらの線を建築的言語(とはいってももう少し地勢的な情報として)で再編したいというところが面白かった。しかも現地には管理というより地縁的な土地交換というような事も行われその個人と言う細かい粒子の複雑系にどう介入するのかも興味がある。

クラウドファンディングによる可能性として多数の投資家に対してビジョンをこちら側から提示できる可能性をもったものという点もfacebookのいいね的な爽やかさがむしろプロジェクト自体の枠組みを寛容にできるのではという点がおもしろかった。

 

 

・野田「建築の内側と外側を捉えた上で、これから・・・」

インスタレーションそして研究において建築の「空間」と「表層」をあつかったのだが、それが建築の最初の建築の出会いとしての「街に現出する」という点にどういう接続を野田ちゃんが見いだしたのか、また本人も「構造」つまり建築の「骨組」に興味があると言ったいたため、それらの「空間」・「表層」・「骨組」・「街としての現れ」がどのように連関するかまたは切断しているといえるのか興味がある。

⇒そしてアトリエor組織と括れないように様々な職種が分業化しさらに副次的な隙間を生むこともあるが、野田ちゃん自身がもしかしたら上のような職種といったまとまりで括れないところ、つまり越境あるいは横断していかないといけなくなることがあるのかもしれないなぁと個人的に思いました。

 

・川出「建築をつくる時のプロセスにおいての意思決定の排他性の排除」

⇒ysp(RC躯体のリノベ)での図面作成時に「つくる人」、「つかう人」、「設計者」がそれぞれ別の領域にいることに発見し、それらを切断するのではなく包括するにはどうしたらいいかという視点は色々図面作成という根気の必要な作業の中で葛藤しながらリアリティを持てたのですごいなと、、自分も早くそのフェーズに行きたいと思った。

⇒そうしたプロセスの結果おしつけがましくないニュートラルな空間を実現可能という見立も納得。ただある意味で周縁的な諸活動(戸建などのプロジェクト)では円滑なコミュニケーションという言葉として「一種のささやかさ」が残るが、もう少しスケールが大きくなった時には社会に対してのスタンスをとらなければ、他者を包括(というよりもリーディング)できないかなーという疑問もアリ、川出自身のリアリティのスケールの位置づけがどこに射程をおいているかを聞きたかった。

 

・野中「建築を作品として成り立たせるために対話のズレを活かす」

⇒建築を作品としてなにか残せないかというという目的のためには施主と設計者や他の主体の「対話のズレ」を埋めるのではなく、活かすべきという意見で

個人的には、そのズレ自体が単に「特異なもの」として他の建物とは自律するというよりも、どのように新しい可能性を見せるかという点においてのプレゼンテーションが欲しかったかなと

⇒ズレはある種必然で、ではそのズレを自己の意識下に顕在化させる方法論は萌芽としてあるのかという点ももっと聞きたかった。

 

・武蔵「建築をつくる時の普遍的思考に意識的なこと」

⇒図式という人間普遍の情報の収束欲求があることを前提に、それ自体が建築の全体性つまりは純粋な連続的形態というよりも、むしろ切断的様相をもったものになると

ただその切断の処理のとき「モノの論理」自体を「人間」が捉えそれ自体を変数にしたとき立ち上がる空間は果たして人間のための空間となりえるのかという点とその切断性がモダニズムにはない言語を生み出す可能性とモダニズム言語も必ずしも否定はできないという見解はなるほどと思った反面、武蔵が定義するモダニズムが「建築のモダニズム」という枠組みで考えていると思ったので、そこらへんの解像度をあげ社会にどう写象するかは気になった。

 

 

僕個人としては

まず都市を能動的にするためという前提で建築における発散的状況をどう乗り越えるかという考えのもと

社会共通資本という字沢弘文という経済学者のfiduciary(信託)の原則を前提とした考え方を建築に導入できないかという試みをまずはやってみているという発表だった。

 

中々伝わりづらかったため、噛み砕いていうと、

 

市場原理のもと非人属的な合意形成でできあがる都市–超高層しかり・ミニ開発しかりが誰も望んでいないが、そこに風景をして顕在している都市、そしてその主体は民主主義的(?検討アリ)な合意形成の妥協的解決のもと責任が不在であるがために非人間的な生態系的特色を帯びている。)–

では建築がエントロピー増大の法則に従うかのように発散的状況を迎えている。

 

青木淳の言葉をかりると「神経系ではなく免疫系(厳密にはこれは設計論のお話だから青木氏は都市論のことを言っている訳ではない)。」

青井先生的にいえば「小さなピクチャレスク」のような状況だ。

ざっくりと言えばおおきなダイナミクスが生じた時建築がもつ共同的な知があまりにも個別的で周縁的であるがためにそれぞれの状況に対し個々に処方するほかなくなる。ということだ。

 

ということは非常に都市としての物理的変化が個別的になり、その修復あるいは革新的変化の記述が難しくなるということ。もっとわかりやすくいうと都市が柔らかくなくなるってことで僕が目指す能動的都市とは少し違ってきてしまうのかなという見立だ。

 

ここでやはりキーワードを挙げるならば「非人間的生態系」という存在だ。

僕個人として、ここでははっきりと定義付けができないが、そのような存在に対して

 

「闘争」するのかそれとも「従属」するのか

 

そのスタンスはあるような気がしている。

 

ここまで書いて行くと、なんだかんだ建築を守りたいっていうような話にも聞こえてくるかな笑(特に大多数はそう見えているような。。)

 

 

卒業設計

卒業設計の感想を書いてと要望があり個人的に需要がないと思うけど、、感想を。

 

今年の卒業設計は

まず第一印象として「表現レベル」がめちゃくちゃ洗練されてきた!すごい!!

 

そしてまた

田村先生が言っていた「What」(何のために)>「How to」(どうやるか)

どうやるかという方法論ではなくて何を達成したかったのかを評価する。

 

という評価軸がとても印象的であった。

 

塚本由晴が以前言った

2000年以前は建築の方法論が多く議論されたが、それ以降は目標(何をしたかったか)を設定し、さらにつくるための方法論はキャンセルしさえすればつくる時のプロセス自体に他の分野の言論が介入できるという言説と重なるところが大いにある。

 

ポジティブに捉えるならば、ゴールさえ設定しさえすれば様々な経路をたどることができ、他分野とゴールを共有できる可能性もあるために、建築が多くの言語で包含しながらプロジェクトを進めることができる。

 

誤解を与えてしまうかもしれないが最近の建築の言説がポストモダンから現代にかけて更新したのはその点が大きいだろう。

つまり参照事例が建築の過去の言語に限定されるよりも今年の卒計を例に出せば「車」や「スポーツ」あるいは「政治」、「ショッピング」、「倫理」など様々な他者的要素を包含しながら設計をすることが可能になった。

 

ただ僕はその他言語の射程に対し無自覚なままに扱うのはよくないとは思う。(もちろん自覚的なのはあった)

「建築は空間に起きていることしか扱えない」という、これまた塚本さんの引用だけど

やはり他言語を用いる時はその言語を空間に翻訳する必然性があるがゆえその作業を怠ると自らのつくる形態に対し説明が難しいといったことが起こりうる。(説明してるけど整合性が合わないであったり)

しかし今回の明治の卒業設計の最終講評会ではそういう視点が少ないと言った印象。あと付け加えると僕はこのこと自体を矮小化して捉えないで欲しい、(つまり立川は設計論者だからみたいな笑)

 

あとで説明するけど自らの下した決断にいかに責任を担えるかという大きなテーマだから卒計は。

 

 

個人的な意見を述べると「What」を達成するための現実と複雑に絡み合った問題系との戦いこそが建築だと僕は考える。自分が設定した社会やテーマはどういう問題系なのかそこに絡み合ってる系はどういう階層関係をもち、もたないのか

それらを分析した上で解決するためにどういう手段で何故そうのような手段をとるのか?

書き出すとめちゃくちゃ当たり前なことなんだけれども、

 

だから自分が引いた線(図面)に責任をもたなきゃいけない、なぜそのような室配置をしたのかだとか方位をどう考えた、室としての環境をどう担保するか、

設計は複雑系のネットワークを「空間ツール」を使って「解く」という作業だ。

その「解く」という作業自体の積み重ねが評価軸に入っていないように思えるのは僕だけだろうか。

 

卒業設計自体が「せんだい」のようなメディアが登場した結果「アイディアコンペ」のようにいわばアジテーションのみのグラフィカルな表現で語られるように陳腐化してしまっている傾向にあるんじゃないかとおもう。(特定の人を指して批判している訳じゃない)–現実にどうやって成立させるのか、なにが問題系として孕んでいるのかと問われると沈黙を受け入れるしかない去年の「せんだい」のように

 

もちろんのこと卒業設計で扱うコンテクストは自分で編集可能だ。よって現実に起きている問題系を恣意的に取捨選択し、フリースタンディングな状況もつくりうる、そうしたとき建築は何を示したのか、その批評性は建築という枠組みの中に閉塞されてしまうとおもう。

もったいない、せっかく他言語に対しての視野が広がった状況で再帰的に建築に閉じこもってしまうのは。

 

最後に責任問題については青井研のゆげちゃんがかいた文章

d.hatena.ne.jp

の最後の部分を引用すると

原発問題をはじめとした合意形成の複雑さを孕んだ問題系に対し、立ち向かう勇気のスタンスという部分があり、すごい共感した、

 

卒業設計は「なぜその線をひけるのか」

その問に対し真摯に答えるべきコンテクストを用意すべきだなぁと。

 

 

思いました。

2月突入

かなり密な1月だった。色々ありすぎた!

バランスとりすぎてプロジェクト自体はめちゃくちゃ停滞したのだけれども(反省)

 

後輩の卒業設計が終わって、その後のTNAの武井誠さんから聞いた言葉が印象に残ったので、備忘録を

 

・デザインの更新は「プロジェクト単位」でなされて行く。

→個別の解法(物理的実体そのものにかかわる)というより、その解法をする時のプロセス自体が参照元となりうる。

→そういった能動的実践を積み重ねて行くしかないと。

 

・74年生まれなので、個人個人が戦国時代的な性格を帯びている。のは確か、シェアリングの意識は低い。よって76世代の人達のシェア的な発想力はあんまりない。

 

 

・師匠(塚本&手塚)の影響はやはりある。

「建物の決定の仕方が外側→塚本、内側→手塚」の二重構造にはまることがしばしばある。手塚さんは内法モヂュールで決まっており、塚本さんは外的要因が大きい。