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建築中心

非人間的なるものへの闘争あるいは従属

2月24日に門脇研のM1で自分達の建築論を語る会があったのだけど、色々思う事があったので忘れないうちに書いて行こうと思う。

 

まずメンバーの大まかな論点を思い出すため、それぞれの感想を書いて行くと

 

(タイトル忘れたので、自分でつけます)

 

箱崎南相馬被災地における現状と、それに対しての建築的解法の可能性と実現性」

⇒避難地域のバロメーターが従来の管理体制によるもので、それらの線を建築的言語(とはいってももう少し地勢的な情報として)で再編したいというところが面白かった。しかも現地には管理というより地縁的な土地交換というような事も行われその個人と言う細かい粒子の複雑系にどう介入するのかも興味がある。

クラウドファンディングによる可能性として多数の投資家に対してビジョンをこちら側から提示できる可能性をもったものという点もfacebookのいいね的な爽やかさがむしろプロジェクト自体の枠組みを寛容にできるのではという点がおもしろかった。

 

 

・野田「建築の内側と外側を捉えた上で、これから・・・」

インスタレーションそして研究において建築の「空間」と「表層」をあつかったのだが、それが建築の最初の建築の出会いとしての「街に現出する」という点にどういう接続を野田ちゃんが見いだしたのか、また本人も「構造」つまり建築の「骨組」に興味があると言ったいたため、それらの「空間」・「表層」・「骨組」・「街としての現れ」がどのように連関するかまたは切断しているといえるのか興味がある。

⇒そしてアトリエor組織と括れないように様々な職種が分業化しさらに副次的な隙間を生むこともあるが、野田ちゃん自身がもしかしたら上のような職種といったまとまりで括れないところ、つまり越境あるいは横断していかないといけなくなることがあるのかもしれないなぁと個人的に思いました。

 

・川出「建築をつくる時のプロセスにおいての意思決定の排他性の排除」

⇒ysp(RC躯体のリノベ)での図面作成時に「つくる人」、「つかう人」、「設計者」がそれぞれ別の領域にいることに発見し、それらを切断するのではなく包括するにはどうしたらいいかという視点は色々図面作成という根気の必要な作業の中で葛藤しながらリアリティを持てたのですごいなと、、自分も早くそのフェーズに行きたいと思った。

⇒そうしたプロセスの結果おしつけがましくないニュートラルな空間を実現可能という見立も納得。ただある意味で周縁的な諸活動(戸建などのプロジェクト)では円滑なコミュニケーションという言葉として「一種のささやかさ」が残るが、もう少しスケールが大きくなった時には社会に対してのスタンスをとらなければ、他者を包括(というよりもリーディング)できないかなーという疑問もアリ、川出自身のリアリティのスケールの位置づけがどこに射程をおいているかを聞きたかった。

 

・野中「建築を作品として成り立たせるために対話のズレを活かす」

⇒建築を作品としてなにか残せないかというという目的のためには施主と設計者や他の主体の「対話のズレ」を埋めるのではなく、活かすべきという意見で

個人的には、そのズレ自体が単に「特異なもの」として他の建物とは自律するというよりも、どのように新しい可能性を見せるかという点においてのプレゼンテーションが欲しかったかなと

⇒ズレはある種必然で、ではそのズレを自己の意識下に顕在化させる方法論は萌芽としてあるのかという点ももっと聞きたかった。

 

・武蔵「建築をつくる時の普遍的思考に意識的なこと」

⇒図式という人間普遍の情報の収束欲求があることを前提に、それ自体が建築の全体性つまりは純粋な連続的形態というよりも、むしろ切断的様相をもったものになると

ただその切断の処理のとき「モノの論理」自体を「人間」が捉えそれ自体を変数にしたとき立ち上がる空間は果たして人間のための空間となりえるのかという点とその切断性がモダニズムにはない言語を生み出す可能性とモダニズム言語も必ずしも否定はできないという見解はなるほどと思った反面、武蔵が定義するモダニズムが「建築のモダニズム」という枠組みで考えていると思ったので、そこらへんの解像度をあげ社会にどう写象するかは気になった。

 

 

僕個人としては

まず都市を能動的にするためという前提で建築における発散的状況をどう乗り越えるかという考えのもと

社会共通資本という字沢弘文という経済学者のfiduciary(信託)の原則を前提とした考え方を建築に導入できないかという試みをまずはやってみているという発表だった。

 

中々伝わりづらかったため、噛み砕いていうと、

 

市場原理のもと非人属的な合意形成でできあがる都市–超高層しかり・ミニ開発しかりが誰も望んでいないが、そこに風景をして顕在している都市、そしてその主体は民主主義的(?検討アリ)な合意形成の妥協的解決のもと責任が不在であるがために非人間的な生態系的特色を帯びている。)–

では建築がエントロピー増大の法則に従うかのように発散的状況を迎えている。

 

青木淳の言葉をかりると「神経系ではなく免疫系(厳密にはこれは設計論のお話だから青木氏は都市論のことを言っている訳ではない)。」

青井先生的にいえば「小さなピクチャレスク」のような状況だ。

ざっくりと言えばおおきなダイナミクスが生じた時建築がもつ共同的な知があまりにも個別的で周縁的であるがためにそれぞれの状況に対し個々に処方するほかなくなる。ということだ。

 

ということは非常に都市としての物理的変化が個別的になり、その修復あるいは革新的変化の記述が難しくなるということ。もっとわかりやすくいうと都市が柔らかくなくなるってことで僕が目指す能動的都市とは少し違ってきてしまうのかなという見立だ。

 

ここでやはりキーワードを挙げるならば「非人間的生態系」という存在だ。

僕個人として、ここでははっきりと定義付けができないが、そのような存在に対して

 

「闘争」するのかそれとも「従属」するのか

 

そのスタンスはあるような気がしている。

 

ここまで書いて行くと、なんだかんだ建築を守りたいっていうような話にも聞こえてくるかな笑(特に大多数はそう見えているような。。)