現実のレイヤーを敷いて考えると
この二ヶ月間は久しぶりに濃密な二ヶ月であったと思う。
端的にいえば、自分がやりたいこと自体の輪郭が見えてきたと言っても良い。
もちろんのことそれは誇大妄想的に陥っているかもしれないがため、ここでマニフェストを提出したいと思っている。
それは端的に言えば「現実のレイヤーをひいて考える」ということ。
ある種建築アカデミアでは理念的な建築活動の在り方は往々にして教育されてきたと思われる。特にGDZ2016で感じたのは明大・日大の学生がそのようなオーセンティックな教育の中では学生が集団での自己の異化をなし得ないということと、ことさらにアーキテクトのスキルとして分析段階での批評で終わってしまうということが大きくある。
4~6月は多くの他大学の学生と交流できたのが大きい。
例えばSFCでは情報技術のリテラシーは段違いである。プログラミング言語をもちながら建築表現ないし、実際のアプリケーションまで作成が可能であるし、かつ言語活動自体もいわゆる従来の「建築作品」に留まらず、いかに「ビジネス」にするかという環境が当たり前になっている。
芸大では、まずモノに対しての捉え方が格段に精度がいい。というのもポートフォリオを見た時驚いたのが、その造形力の高さはもちろんそれを成り立たせるための具体的な物性のイメージが彼らにはあった。(矩計も書いていた。)
ここまでは、アカデミアでの印象だけだが、
5月の始めに行った神山町での体験も大きい。
神山で見た小屋達は無計画で即物的なのだが、限られた材よりブリコラージュされたそれはある種のプリミティブな原型を想起させるし、その時には図面を書くこと自体の効力が無くなってしまう(もちろん精度がいい建物、他者的な建物であればあるが)くらいの感覚を覚えたし、建材を自由自在に組み合わせながらつくるその行為自体で得られる情報がいわゆる建築設計よりも多量であるのは(つくるという行為において)とてもうらやましかった。
その中でも自分の中で最も大きかったのは「モクチン企画」のインターンに落ちてしまったこと。つまりある決定的な能力不足が露呈したといっても過言ではない。
その時に初めて自分が進むべき道には何が必要かというレベルをもっと掘り下げなければ、そしてそれをスキルとして習得しなければという意識が芽生えた。
ただそれはモクチン企画自体のやっていることへの再解釈から得られた情報の質は、自分がやりたいことの一つのメルクマールとなってくれたし、その原型として「HAGISO」や「CASACO」などの都市的・編集的実践はとても刺激になった。
また、今まで点的だった思考が線になりつつあることもある。
特に『建築の解体』での言葉の鮮度が今現在の状況にオーバーラップできるくらいの強度をもつのが、驚きだ。そこで語られているのはある種の建築家の職能の変化だと思う。
ことさらにそれをサスティナブルな職能として成立させなければならないという意志自体がとても強くなっていることは間違いない。
とのことで、まずは現実に即したシュミレーションをどんどん打ち出して行く回路をつくりたいと思っている。
ということで6月は本当に大事な期間だ。良い準備をしたい。