2016
2016も、もう年の瀬。
とにかく時間が経つのが早かったなー今年は
今年最後に色々反省そして来年の抱負を
まずプロジェクトに関してこれに関して一番自分にとっては大きかった。
とにかく自分の無力さに直面したのが一番でかかった。
建築を作りたい、そしてその実践を都市の中で展開したい。
その思いが強い反面自分の能力不足に直面した。
課題としては
・まず図面が描けない。
・ディテールの引き出しが少なすぎる。
・3D!rhinoマスターしなければ
・現実見えてない。
・あと大事なのはなんでも一人でやろうとしてしまったこと、建築に関しては決して一人でやれる仕事じゃない。そのギャップが
やりたいことをできない、理想と現実のギャップ。これが20代男子の抱えるジレンマなのか。。。とひしひし感じた。
SFCのイベントに参加し建築プロジェクトと多分野の問題の立て方の枠組みが違うこと。扱う分野が異なる、建築は時間がかかるし射程も大きくはない(複製可能ではない)
さらには友人のデザイナーが店舗を二つかまえたことが大きく影響したのかな
建築のデザインの射程とはなんだろうかと少し建築に対してモヤモヤした気持ちがあった中で入院
ここで色々考えたのだと思う。本を読みながらグダグダするのは久しぶりだった。
中でも響いた言葉は
青木淳の"現代は自分の価値観を疑い続ける時代"といった言葉
その当時の僕にとって大事な言葉だった。
だから入院したのはいい経験だった。
JUN AOKI COMPLETEWORKS |3 | 2005-2014
- 作者: 青木淳,鈴木心,阿野太一
- 出版社/メーカー: LIXIL出版
- 発売日: 2016/03/01
- メディア: ハードカバー
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もちろん少しは辛かったけどね笑
財布がなくったし、鼻血で貧血なったけど友人がお見舞いしてくれたし、看護師さんがとにかく凄い人達だったしと色々濃い一週間でした。
退院そしてモクチンインターン落ちた後、少し考える。
プログラミングを勉強し、多く本も読めた。自分の中で自らの見方としての地図ができ始めた実感があった。
そして大きかったのが神山のWEEKのワークショップ、ものづくりの楽しさを改めて実感したのと同時にやっぱりモノが作りたい。そして色々な人の話を聞く環境を自分の手で作りたいという思いが強くなった。
その後、勉強会もスタート
これは裏テーマは未来の嫁を幸せにするためにということで始めたが、そもそも就活してない4人組ということで始めた活動はいかに自らの仕事を持続可能にしていくかその中で理念を実現するための手段や方法などはどういうものがあるかをもっと具体的に考えていこうという20代男子特有の不安を抱えながらの勉強会である。
僕個人としては不動産や金融そして経営にまで視野を広げることができたのかなと思う。ただまだスキルは目標まで到達していない。
卒業後もこれからもずっとやっていきたい。
研究も建築基準法にミクロにフォーカスすることで建築基準法のパッチワークを日々体感できている。そうした中来年度の就職先も決まり一安心だ。ただ論文のモチベーションはあんまり上がらない笑
早く設計したい。
今年を総括する言葉としては「準備」だ。
独立の時に、どれだけサスティナブルな仕事をするか、
嫁を幸せにするか
生まれて四半世紀
改めて父親と母親のハイブリッドだなと最近思う、
父親の完璧主義とストイックなとこ母親の気を使うとこと責任感
二人のいいとこではあるけど最近自分が人に甘えること、弱さを見せることがとても苦手なことに気づく。
いいところは伸ばして良くないところは修正していきたい。
一人の時間が増えた。
このままじゃいずれ挫折をまたするような気がするけど、
今はまだまだ能力不足すぎるから今のままやっていこうとは思ってるし、挫折ももうさすがにいい意味で受け止められるようになっているし、そう言った意味では自信がついてきたのかと思う。
来年はまず、
・コツコツ貯金すること(100万)
・スキルを習得すること
・資格取得すること(まずは二級かな!)
を目指して
コツコツ頑張ろう。
コツコツと
最近の世界の動態に関して、例えばイギリスのEU離脱トランプそして世界の保守化について僕自身違和とはいかないまでも何故そういう意思決定になったかということが自身の研究をしながらぼーっと思っている。
そもそも脳の意思決定システムに関しては「自由意志」など存在しえないというのが池谷さんの著書で記述されている。脳はあくまで無意識的にある出来事に対しての反応を決めていてそうした決定要因は自由意志がないと仮定すれば常に外在的な環境からのフィードバックであり続ける。=つまリ『反射』といった内容。
「認知的不協和」という(社会学の)ワードがここで出てくるが、説明すると
自身の感情(理想)と行為(現実)が一致しえない時、そこに違和を感じそれらを一致させる二次的欲求が生まれる。そうした時即物的に考えれば感情の方が変化しやすいので
「ダイエットは明日から」
「宿題は集中した方がやりやすい」
などと自分が決定した行為に対して欺瞞を行うようになる。そもそも脳ミソはそういう風にできているという話である。
もちろんこれらの脳の活動も先ほどの『反射』であるのだ。
池谷氏はこれらの『反射』に対する適合性を高めるためには「いい経験」=成功体験をするほかないと語る。
感情で釣られる人々 なぜ理性は負け続けるのかの著者の堀内氏は
やはりその反射が現代においてはあまりにも即物性の性格が強いことに対して、
冷静に判断できる「環境」を整えることが大事だと説く。
マーケティング(コトラーによる)での「感情の動員」は社会にあは空気のように存在しておりそれが政治経済の大きな動力となっている。
かつてのアダム・スミスが提唱した「ホモ・エコノミクス」の啓蒙的で理性的な人間モデルが現在においては否定され始めてさえいる。そうした今多くが感情に依存している決定パターンを理性の単純な批判を超え自らの認知的不協和の「正しさ(属個人的な)」に説くこと(ジャンプあるかも。。。)あまりに感情を変化させないことの大事さをここでは説いていた。
最近自分が本当に飽きっぽなーと思ってきた飽きっぽいというのは途中で身の回りの環境に慣れてしまうことと同義なんだとお思う。
ただ環境は即座に変わるものでもないときコツコツと力をつけないといけない。
まずは卒業までに自分の必要最低限のスキルを獲得していく。
なんだか最後は言い聞かせるみたいになった。
現実のレイヤーを敷く会_004 161029
勉強会第4回目の振り返り
プレゼンターは立川と箱崎。
【立川】
現実:都市を能動的にする際に様々な不均衡性がある。
ex.)
例えば家賃による都市への参加可能性の非対称性など若年層が都市に参加する際は限られた層に限定される現実がある。
cf.)
平山洋介 「都市の条件―住まい、人生、社会持続 (真横から見る現代)」
それに対してのオルタナティブを提示したい。との理念レベルでの話
まずはその非均衡性を解消するための方法として
「土地」をいかに開放していくかということでのケーススタディを提示した。
まずは東京のどこにターゲティングするかの話で現在地価高騰の動態の中で、いかに中央三区以外で取得可能範囲を広げていくか。
次に用途地区を準工業にした時の可能性について、
いろいろな用途が可能である。
おそらくこのゾーニングは政府は今後緩和の方向に向かうだろうがが今はまさにその過渡期を歩き出す第一歩目だと見ている。
次回以降の課題としては
【ローンを組むために必要な源泉徴収票が取得できない1年目の過ごし方について】
【具体的な敷地調査フィードバック】
をしたいと考えている。
意見としては、
・リノベーション代が高くつく(コストマネジメント)
・イニシャルコスト・ランニングコストの精査が必要で結局収支がプラスになるのか、
収支がプラスになるということはどこを削減するかという戦略が必要なのでは
という意見があった。
【箱崎】
理念:(最終的には地元で何か建築的行為で貢献したい?)
現実:クラウドファンディングにおける実態
引き続きクラウドファンディングにおけるスタディを共有。
具体的な信用・信託と投資金額の共依存関係の背後には少なからず、それが社会的な意味をどう可視化しているかというところが最も投資する対象として大きいところを指摘。
個人的にはそれが建築自体のオープンプロセス化につながることが大変に面白いとおもった。建築プロセスが並列的に常に可視化されたサイトを作る意義は
一つに「リテラシーの提供」
二つに「プロセス自体の相互作用」
など建築設計におけるオープン化としてとても可能性があるものだと感じた。
またREITと相対化できるという点でマニュエル・カステルが指す「フローの空間」の中に少し異なった時間軸を提供できるものであり、そこに関してとても面白いと感じた。
ん?もしかしたらこれは近いうちにできるかもしれない。そうなったらめっちゃ面白い。
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今回の発表は以上。
個人的にはもっとこうなってほしい思いというのがある。
言いたいこととして
議論はそのアイディアの不可能性を説くのじゃなくて、可能性を見たいと思う。
アイディアには一般化されてる問題点は必ずあって、そこに対して再照射するというより、それをドライブした後の未来をポジティブにみんなで考えようよ。という方向に持っていきたいなーって俺自身は思ってます。
次回は11月25日。
現実のレイヤーを敷く会_003 161003
今回で第三回目、約2ヶ月ぶり。発表者は立川と弓削多。
立川に関しては
【理念の確認】
と
【3つの課題】に関して
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【理念の確認】
理念としては能動的な都市であるが、これを言語化すると
自らの主体性を持ちながら物事を判断でき、そしてその能動性を都市において実践出来る環境を構築したい。ということである。
別の意味で考えると貨幣システムに依存しすぎないということだ。
自らの技術(スキル)を身体の外部に貨幣を介して依存するのではなく、何らかのスキルを身体化しそれを実践出来る環境をつくるということ。
具体的に言えば「住み開き」のような自己組織化はとてもいいなと思っている。
都市において自らのスキルを表現できるということの好例だ。
このような「質」を獲得していきたいということだ。
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【3つの課題】
とは言ってもあくまで理念。それをいかに実践していくかが、個人的なこの勉強会のトライアルでもある。
では先ほどの「質」をいかに獲得していくか。どのためには今は3つの課題があると思っている。
簡単にいえばこの3つである。
1に関して
土地所有、建物所有という枠組みにおいて不動産をいかに取得し、そこに投資していくか
2に関しては
取得した建物の用途を変更する際、建物の仕様を変更せざるをえない。
または都市計画上の用途地区との整合性の問題をどう解いていくか
3に関しては
銀行から融資される時、いかに運用をしていくか
今回は特に1に関しての発表。
いかに不動産を取得していくか、
まずはマーケティングの基礎中の基礎を紹介。いかにニーズを合致させるか、さらにターゲットをどう絞っていくかというプロセスを脳みそに習慣化させるという内容。
その後、空き家の運用方法。
いかに良い物件を見つけていくか、
その後実際に様々な住宅地を研究で巡っている中でいかに物件を見つけていくかを発表。
次回はもう少し、不動産にアプローチすることと制度の問題を発表したい。
構成論の限界-70年以降-
"住宅の設計は敷地の形や環境から独立した発想の上に足場を置くべきだ"
これは篠原一男の『住宅論』における有名な一文である。
この文章を初めて読んだ学部生の時の衝撃は驚いた。
いうまでもなく「建築の自律性」の話であるがここでは、いうまでもなく高度経済成長時のあまりに加速度的に進んだ都市化というコンテクストの中の住宅ということになる。
60年代に提出された建築家の都市のイメージの代表はもちろんメタボリズムである。
メタボリズムは急進的な都市に対して生態系のアナロジー(それがスケルトンインフィルというワードからも連想される)で対抗しようとしたのに対し篠原はその都市自体の中に住宅を位置付けることを建築の矮小化とし、彼は建築をある種の「芸術」として捉えた、ここでいう芸術はあくまでも近代人としての自由への希求としている。
揺れ動く都市動態=社会従属の結果=主体なき都市、そこの空集合論の都市に対しての迎合を避けたのだろう。
このようなフォルマリスティック思考はある種、60年代という都市動態のコンテクストがよほど大きかったのだろう。
メタボリストも篠原もアプローチは違えど真なる「自由」を獲得するための希求であったと理解できる。
70年以降はある種都市を見る解像度がレベルアップしたと捉えることができる。
例えば坂本一成の構成論はまさに自律性と他律性の同居を狙ったものであった。
主体的現実の中
ある事象を客観的な情報の集合として描く美学は多くある。例えば行動経済学なんてものは人間の心理という意味では刹那的判断(インプロヴィゼーションのような身体的反応を伴うとおもう)を要する、これと反対に歴史学はある客観的事象を事後的にオーーバーレイしていく作業という意味では扱う時間軸が異なる。
その中で最近は心理学、行動経済学、マーケティングなどの扱う時間としてはより短いものが興味が有る。
最近読んだ本の中で
- 作者: ユクスキュル,クリサート,Jakob von Uexk¨ull,日高敏隆,羽田節子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/06/16
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この二冊が印象的であった。
ユクスキュルの言葉の中で最もキーワードとしてあげられるのが
「環世界(かんせかい)」というワードであろう。
これはそれぞれの生態系が独自に有している知覚の世界のことを銘を打ったもので、
その中で僕自身が一番注目したのは
「主観的現実」というワード
最もこれは環世界のパラフレーズでもあるんだけれども、
科学的に実証されてない事象例えば幽霊などの幻もこの主観的現実されるくらいに独自の主観が世界を構築しているという事実性に驚く。
また二冊目の伊藤さんの本はここ最近の中で一番良かった。
盲目の人を福祉的対象ではなく、面白がる対象(つまり差異のある環世界を楽しむ態度)としてみているとし、
例えば目の見えない人の空間は単純な幾何学的平面に還元され私たちのイメージによる空間把握とはまた別の把握法があることを示唆し今現在の視覚的情報にあふれる都市がまさにイメージの副産物であることを如実に示すものだった。
この二冊を読んで通底していて感じたのは
科学/歴史学などある客観的情報を扱うことと同時に
主観的現実に関してどれだけ踏み込めるか、そのためのメソッドも必要であると痛感した。
建築のお話においても往々にしてコード化がなされる。
例えば「空家問題」
このことに関して客観的事実性だけで一応の説明は可能だ(人口/制度/経済などで)
そのどれもが事後的で客観的であるがゆえ、例えば個別の事象に対しての用途変更のストラグルなんかは捨象されてしまう。
つまりそこには方法論としての情報が往々にして抽象化される。
このことがまだ言葉ではうまくまとまっていないのだけれども
なんだか最近の考えとして大きいのかもしれない。
それぞれ主体的現実の中で生きているわけだ。
ベンチューリでさえ「〇〇の方が好ましい〜」という自らの主張を偏執的に書くことで「絶対〇〇である」という断定を避けた。
ただどれだけその主体的現実に向き合えるか環世界を豊かにできるか。
それをとにかくやっていきたい。
「都市を能動的にする」
システムが瓦解した時に耐えられる自己を生み出すという質を実現したい。
そのために必要なのが「都市を能動的」にすることだ。
システムとは一概にこれとは言えないが、貨幣システムを例にとると了解しやすいと思う。
貨幣を媒介に身体の外部を拡張でき常に複数のオプションを選択できることが近代以降のある一つのメルクマールとなっていたと思われる。
例えば伊東豊雄の「東京遊牧少女の包」は軽やかな衣服に包まれた少女たちが都市の中でファーストフード店をリビングに位置付けジムなどをバスルームと、生活の機能をその従来の家に求めるのではなく「貨幣」を代替に「空間」をそして「時間」を消費することに対し建築的なラッピングを施したプロジェクトで有名でこのことはまさに先の指標の一つの到達点を達成したといえる。
伊東の「消費の海を浸らずして新しい建築はない」(1989)もこのような状況を前提にしながら建築の新しい形式を模索していかなければならないという啓発的論文であった。
もちろん僕自身もこの状況に対しドラスティックな構造変化のパースペクティブの提出は不可能であると思うし、この状況下で建築を模索していくほかないと思っている。
しかしながらシステム(何らかの供給システムと考えれば判りやすい。階層関係の世界)が瓦解した時、僕らは無防備な身体を暴露させられる。僕たちは近代において「消費する術」を獲得した代替に身体に本来備わっているスキルは外部(システム)に依存することで軽やかな身体を獲得した。
僕個人が卒業設計で訴えていたのは常にその状況に対して自覚的にそして都市を読み替える術を持つスキルの必要性で消費一義的な空間が多く自己生成する時、「隙間」のようなニュートラル(何にも属さない)空間を見出せるかへの問いでもあり、即ち能動的な都市の実現へのマニフェストでもあった。
能動的な都市とはまとめると他人の生を生きることなしに能動的に都市の中で自分を表現出来る都市であると僕自身は思っている。
そしてそのために必要なことして、今現在以下のことが大切であると思う。
・「都市への参加の機会を増やす」
これは「自己再組織化」を分かりやすくネットワークするということかなと思っている。
以下はその事例である。
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●「CET」(以下、リンク)
都心回帰の動態の分かりやすい例である。
●「仙川」
余剰となった床で多くの商店が営まれている。
●「HAGISO」
エリア全体を設計するという点では新しい計画の形かもしれない。
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これらの現状に対してはやはり個別的な事例による制度設計が必要だろう。
(また書きます)