構成論の限界-70年以降-
"住宅の設計は敷地の形や環境から独立した発想の上に足場を置くべきだ"
これは篠原一男の『住宅論』における有名な一文である。
この文章を初めて読んだ学部生の時の衝撃は驚いた。
いうまでもなく「建築の自律性」の話であるがここでは、いうまでもなく高度経済成長時のあまりに加速度的に進んだ都市化というコンテクストの中の住宅ということになる。
60年代に提出された建築家の都市のイメージの代表はもちろんメタボリズムである。
メタボリズムは急進的な都市に対して生態系のアナロジー(それがスケルトンインフィルというワードからも連想される)で対抗しようとしたのに対し篠原はその都市自体の中に住宅を位置付けることを建築の矮小化とし、彼は建築をある種の「芸術」として捉えた、ここでいう芸術はあくまでも近代人としての自由への希求としている。
揺れ動く都市動態=社会従属の結果=主体なき都市、そこの空集合論の都市に対しての迎合を避けたのだろう。
このようなフォルマリスティック思考はある種、60年代という都市動態のコンテクストがよほど大きかったのだろう。
メタボリストも篠原もアプローチは違えど真なる「自由」を獲得するための希求であったと理解できる。
70年以降はある種都市を見る解像度がレベルアップしたと捉えることができる。
例えば坂本一成の構成論はまさに自律性と他律性の同居を狙ったものであった。