主体的現実の中
ある事象を客観的な情報の集合として描く美学は多くある。例えば行動経済学なんてものは人間の心理という意味では刹那的判断(インプロヴィゼーションのような身体的反応を伴うとおもう)を要する、これと反対に歴史学はある客観的事象を事後的にオーーバーレイしていく作業という意味では扱う時間軸が異なる。
その中で最近は心理学、行動経済学、マーケティングなどの扱う時間としてはより短いものが興味が有る。
最近読んだ本の中で
- 作者: ユクスキュル,クリサート,Jakob von Uexk¨ull,日高敏隆,羽田節子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/06/16
- メディア: 文庫
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この二冊が印象的であった。
ユクスキュルの言葉の中で最もキーワードとしてあげられるのが
「環世界(かんせかい)」というワードであろう。
これはそれぞれの生態系が独自に有している知覚の世界のことを銘を打ったもので、
その中で僕自身が一番注目したのは
「主観的現実」というワード
最もこれは環世界のパラフレーズでもあるんだけれども、
科学的に実証されてない事象例えば幽霊などの幻もこの主観的現実されるくらいに独自の主観が世界を構築しているという事実性に驚く。
また二冊目の伊藤さんの本はここ最近の中で一番良かった。
盲目の人を福祉的対象ではなく、面白がる対象(つまり差異のある環世界を楽しむ態度)としてみているとし、
例えば目の見えない人の空間は単純な幾何学的平面に還元され私たちのイメージによる空間把握とはまた別の把握法があることを示唆し今現在の視覚的情報にあふれる都市がまさにイメージの副産物であることを如実に示すものだった。
この二冊を読んで通底していて感じたのは
科学/歴史学などある客観的情報を扱うことと同時に
主観的現実に関してどれだけ踏み込めるか、そのためのメソッドも必要であると痛感した。
建築のお話においても往々にしてコード化がなされる。
例えば「空家問題」
このことに関して客観的事実性だけで一応の説明は可能だ(人口/制度/経済などで)
そのどれもが事後的で客観的であるがゆえ、例えば個別の事象に対しての用途変更のストラグルなんかは捨象されてしまう。
つまりそこには方法論としての情報が往々にして抽象化される。
このことがまだ言葉ではうまくまとまっていないのだけれども
なんだか最近の考えとして大きいのかもしれない。
それぞれ主体的現実の中で生きているわけだ。
ベンチューリでさえ「〇〇の方が好ましい〜」という自らの主張を偏執的に書くことで「絶対〇〇である」という断定を避けた。
ただどれだけその主体的現実に向き合えるか環世界を豊かにできるか。
それをとにかくやっていきたい。