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建築中心

「ポケモン化する建築」とその先

最近少し思うこと。をつらつらとかこう。(内容堅すぎると思います)

 

建築が個別的・固有的になっていくのは、ある種必然だ。

 

戦後GHQによる農地解放から敷地またはその土地活用は市場というレイヤーの中でプレイヤーを増やすために現在に至るまでセグメンテーションを起こした。都心における大規模開発さらには郊外のミニ開発もその動態の一端と言えるであろう。

その結果としてトップダウン的な近代的計画に対してのボトムアップ的な自己組織化ともいえる状況が起こった。例えば仙川の住宅地における個人商店の増加など、個人の多様な生き方に対して複数の場を市場によって再帰的に還元されることが可能となった。

 

この事は最もポジティブなことで、前近代の氏族社会では考えられない多様な紐帯が日常を取り巻くようになったといえる。

 

この歓迎すべき都市的な状況を建築におけるレベルにおいてどう考えればいいだろうか。

 

G・ベイトソンの言葉をかりると「建築は生態系のような」というようなメタファーに対しある種の体系的な見方を与えてくれるだろう。

それはジェネティック(遺伝的)とソマティック(体細胞的)というような二つの論理階型の異なる情報選択プロセスを当てはめれば建築の構成もある一つの流動的プロセスの中で「不変である部分」と「変化を要請される部分」で成り立つことが浮き出てくる。

人間の身体が例えば高山において体細胞的な変化を強いられ心拍数の調整をする場合

その変化された情報自体が、直接的に子に遺伝されることはない。(大げさに言ってしまえば高いところにある物をとるために片方の腕がのびてしまうようなことはないのである。)

このプロセスの中には遺伝的な情報自体が持つ検閲システムが体細胞的な変化の情報を取捨選択することにより遺伝的な身体を統御する回路がある。(のびきった腕は他の生活にとても不便になってしまうので、より普遍的な身体を維持しようとするのである。勿論アスリートの身体的情報が幾分か子に引き継がれることはあるが、その内容としてあまりにも特異な情報は淘汰されていくのである。)

つまり体細胞的な変化自体がある特異な環境のもとドライブすると他の環境の元では生存しづらくするということを避けるために統御しているのである。ここまでは一般的な生態系の変化のされ方だが

 

再び建築にそれを当てはめるとどうだろうか

建築においてはある個別の物語(施主のキャラクター)を引き受けるがあまり、建築が固有解になりすぎて骨組みや解法があまりにもシンギュラーになりかねない場合がある。

例えばゲーリーなどの作品においては

役物(一般的な建築材料ではなく特注のもの)が多く使用されるがゆえにその解法も必然的に他とは共有し得ない固有の解となる場合があるとおもう。

また別の例としてメタボリズムが失敗したのはスケルトン・インフィルという骨組にあたるスケルトンがその建てられた当時の技術を必要とする骨組みの在り方にあったとされ、すなわち革新的に進んだ60年代における技術とのギャップ自体がその骨組みを即座に固有解となし得てしまったということなるのでは。

 

ここで建築がソマティックなレベルとジェネティックなレベルを持つと仮定すれば、人間の身体のように捉えることも可能だ。(もちろんどこがその閾値になるかは見方次第で大きく異なるが)誤解を招くかもしれないが、一つの建物の変遷を見た際は、不変となる骨組みを遺伝的なレベルととらえ、調光や採光などの外壁あるいはサッシなどは体細胞的なレベルととらえることが出来るかもしれない。(ただ最近ではメーカー自体の規格自体または環境性能自体が建物を規定している見方も同時に考えられるので、実際にはもっと議論する余地が残っている。)

体細胞的なレベル自体が建築を規定しているがために遺伝的なレベル自体の可変レベルを落とすことが大いにあると思われる。例えば、施主の特殊な与件を引き受けるがために特殊な構造や材料を用いるばかりにその骨組が無理をし用途自体が定まりすぎることも考えられる。(用途転換が不可能であったり)

つまり建築が固有の解答になればなるほどその形態がもつ柔らかさ(=他の環境に順応する可能性)を失いかねない。

 

とすれば、都市自体の物理的環境が建築というセルで担うとするならば、都市に対してなんらかの変化が与えられた時、それはそれぞれのセルに対し、個別の処方をしないといけなくなるであろう。

もし都市が次のフェーズに以降するとき一元的の手法で汎用的な状態することが都市の柔らかさにつながるのではないかと思っていた。(例えばこれはタイポロジーという意識をもつような連勇太朗のような手法自体にもみわれるような)

 

ポケモン化する建築とその先の都市はどうなるんや 

そして書いていて思ったのが(笑)

 

・ただ、ここで「共」を求めるのは今日的ではないのか。→社会共通資本の不可能性

・ただし、体系として「構築」することを纏めることは可能化なのか?→本当に個別解だとオナニーになってしまうよ〜〜

 

この二つの疑問だが、なんだか吹っ切れたような気がする。(ただしくはそんなもんは今は考えないようにする状態だけど)

 

というのも先日とある建築家の事務所にお世話になった。とても良いお話を聞けた。そして最近の情報と建築の動態にも関心が移ったので、

 

まずその話として

・住宅は現代においての減価償却は30~40年、その間にでも土地に少しでも愛着がでてくれば、つまり「人と建物の関係性」(改めて深いな、、)そうしたことが都市と繋がって行くようなそんな感覚が大事(主観です)

・自分たちのリアリティがいかに狭小で実は過去には様々な系譜があり、近代自体が若者のリアリティのほとんどを形成している。その中で既成概念をどう崩すかのチャレンジ。

もしかしたら社会って感じじゃなくなるかもしれない。

 

など文章では書ききれないくらいの、大人のありがたい言葉がしみました。。

とまぁ家を建てるプロジェクトはすごい滞ってますが、なんだかやっぱり楽しまないとと、思い。どう進めればよいのか模索中。。

 

あと先日『バンクシー・ ダズ・ニューヨーク』を見たが、まさに「都市はツリーではなく、セミラティス」であるということが分かった。そしてそれとつながるのが最近の新建築住宅特集2016年4月号の「HAGISO」の建築家宮崎さんのお仕事がとても面白いと感じた。

文化施設とその他の機能をネットワークするような感覚。

 

それで思ったのが本当は「建物の中だけを関係付けたいんじゃないんだよなぁ。。」というような感覚。

それは岐阜のメディアコスモスを見て強く感じたことを友人の門間氏に話したところ、実は連さんもそうゆう風に言ってたみたい。

 

文章めちゃくちゃ不連続な感じになったけど、これがいいのかなぁって。

昔から連続的な思考が身にしみてしまってどうやらなにか物語を描きたい病(言い訳にもつながるし、説明しやすいし)

だからなんでもかんでも、目標を建ててそれをクリアするまでやめない!!みたいなのはなんだか最近はどうなんかなと、(というか目標の建て方だろうね)

と色々考える。ぼくなのでした。

 

 

実は25日から一週間ほど入院(すごい軽いやつなんで心配しないでください。)するのでまた色々一人で物思いにふけます。

色々考えます。

これからの生き方について。