セヴェラルネス
これからブログに読書ノートを書いて行こうと思う。
備忘録として、あとは他のものを関連できるノートとして
まず7つの章で構成される内容だが、それぞれの賞についての考察
1、桂の案内人
⇒まず、章の最初にG・ベイトソンのオッカムの剃刀を用いた「数列の例」があるが
それらはまず様々な数(具体の事物)の連続というのはあたかも一つの規則性に基づき進んでいるように思えるが実はその事物からは「有限の小径=セヴェラルネス」が与えられており、それらの中の一つの径をたどった結果にすぎないというタイトルの意味が与えられる。
ここで具体の例として中谷は「桂離宮」をあげ
磯崎の指摘を引用し事物を対象として挙げることは必然的に「両義性(真になり得ないもの)」がともなうとし、「事物の絶対的な存在」と鑑賞者との非対称性があるとし、
桂がもつシークエンス(数列)において案内人の存在がシリーズ=各空間(級数)がもつ小径を一元化していることを発見し、それゆえに再びその小径を解きほぐし書き換えることでまるで異なる空間体験を描いた。
つまりは「過去」自体がセヴェラルなパスの選択次第で意味が変様するという可能性を説いたと言ってよい。
2、ペリカン島戦記
最初に「事物の歴史」について
ジョージ・クプラーが述べる「事物」とは
”人間の観念とその外部にある物質の間に発生する現象である。"と
「有形=かたち」なものを媒介にし初めて観念が発現するということで例えば
ことばのようなそのものの「起源」自体が用法自体に何ら影響を持たないようなことをさす。
それに対しヴァージニア・リー・バートンの絵本『ちいさいおうち』では
おうちに焦点を合わせ、他の環境自体が変様してもそのオリジナル(起源)そのものは絶対的で不変というようなストーリーが展開された。
ここから読み取れることとして事物(建物)は一つの起源をもつが、それがもつ結末としては二つ、一つは保存そして二つ目は消去であると中谷は読む。
ただ、保存の際にオリジナルというのは果たして絶対的な観点はありえるのだろうか?中谷は作り手のコンテクストに限定されうるオリジナルへの傾倒への歴史学をあまり認めず、むしろ「ちいさいおうち」といえどもいくつかの「事物」の連鎖であるので、それらを紐解けば「梁」・「柱」・・・etcなどの下位のクラスターに分解される。そうした中無数のパスが描き出せることとなる、ではどのようにして「事物」が描き出されるのか。
中谷は次にペリカン島戦記についてしるす。そこではかたちを巡ってオリジナルというのが後に書き換えられるストーリー次第でいとも変様するという過程を描く。
3、建築職人ウィトルウィウス 弱い技術
ひとつの強いオーダー(秩序)によってかたちづくられる形態が「強い技術」であるとしたら、連続的な時間系列の中で段階的なコンテクストの取り方をしていくやり方を「弱い技術」という。
アナスチローシスはいわば「強い技術」に依拠した保存方法である。初期の形態を強く意識するあまり初期形態建設時の技術自体に束縛される。日本でいうメタボリズム運動もある種のアナスチローシスに陥ったと言ってよい。動的な技術革新による躯体の陳腐化を認めざるをえないがために、スケルトン自体の冗長がなく、他の技術の連関をも断ち切って保存という道程しか描けなくなってしまう。
反対にポンペイの壁は実は「弱い技術」で形成されていた。段階的なコンテクストの変化に対し一つの壁はある複合的な手法の時間的堆積が伺えた。
日本におけるトタンの使われ方もまた一つのそれであろう。
ウィトルウィウスが建築書の中に広範な知識(天文学など)を含めたのはコンテクストが変化するたびに他の技術との契約関係が変化する、「弱い技術」そのものを描きたかったのではないか。
・・・・長い。笑
ちょっと書き方をかえよう。
特に印象に残った部分だけにします。
ということで一番興味深かったのは
5章の自尊心の高い少年だ。
アレグザンダーの「都市はツリーではない」
セミラチスの計画不可能生を認めながらも、結果的にはツリーの集合体である都市からセミラチスな体験がなされるプロセスが非常に面白い。
そこには人がツリーに対してのフィードバック行為を行いアンサンブルな関係=サイバネティックを実現していること(無自覚なプロセス)
デザインはその(無自覚なプロセス)と可視化された問題(不調和・差異)との動的平行関係をしめすということ。
うーん、アレグザンダーをもう少し勉強しないとわからないな。。