卒業設計
卒業設計の感想を書いてと要望があり個人的に需要がないと思うけど、、感想を。
今年の卒業設計は
まず第一印象として「表現レベル」がめちゃくちゃ洗練されてきた!すごい!!
そしてまた
田村先生が言っていた「What」(何のために)>「How to」(どうやるか)
⇒どうやるかという方法論ではなくて何を達成したかったのかを評価する。
という評価軸がとても印象的であった。
塚本由晴が以前言った
2000年以前は建築の方法論が多く議論されたが、それ以降は目標(何をしたかったか)を設定し、さらにつくるための方法論はキャンセルしさえすればつくる時のプロセス自体に他の分野の言論が介入できるという言説と重なるところが大いにある。
ポジティブに捉えるならば、ゴールさえ設定しさえすれば様々な経路をたどることができ、他分野とゴールを共有できる可能性もあるために、建築が多くの言語で包含しながらプロジェクトを進めることができる。
誤解を与えてしまうかもしれないが最近の建築の言説がポストモダンから現代にかけて更新したのはその点が大きいだろう。
つまり参照事例が建築の過去の言語に限定されるよりも今年の卒計を例に出せば「車」や「スポーツ」あるいは「政治」、「ショッピング」、「倫理」など様々な他者的要素を包含しながら設計をすることが可能になった。
ただ僕はその他言語の射程に対し無自覚なままに扱うのはよくないとは思う。(もちろん自覚的なのはあった)
「建築は空間に起きていることしか扱えない」という、これまた塚本さんの引用だけど
やはり他言語を用いる時はその言語を空間に翻訳する必然性があるがゆえその作業を怠ると自らのつくる形態に対し説明が難しいといったことが起こりうる。(説明してるけど整合性が合わないであったり)
しかし今回の明治の卒業設計の最終講評会ではそういう視点が少ないと言った印象。あと付け加えると僕はこのこと自体を矮小化して捉えないで欲しい、(つまり立川は設計論者だからみたいな笑)
あとで説明するけど自らの下した決断にいかに責任を担えるかという大きなテーマだから卒計は。
個人的な意見を述べると「What」を達成するための現実と複雑に絡み合った問題系との戦いこそが建築だと僕は考える。自分が設定した社会やテーマはどういう問題系なのかそこに絡み合ってる系はどういう階層関係をもち、もたないのか
それらを分析した上で解決するためにどういう手段で何故そうのような手段をとるのか?
書き出すとめちゃくちゃ当たり前なことなんだけれども、
だから自分が引いた線(図面)に責任をもたなきゃいけない、なぜそのような室配置をしたのかだとか方位をどう考えた、室としての環境をどう担保するか、
設計は複雑系のネットワークを「空間ツール」を使って「解く」という作業だ。
その「解く」という作業自体の積み重ねが評価軸に入っていないように思えるのは僕だけだろうか。
卒業設計自体が「せんだい」のようなメディアが登場した結果「アイディアコンペ」のようにいわばアジテーションのみのグラフィカルな表現で語られるように陳腐化してしまっている傾向にあるんじゃないかとおもう。(特定の人を指して批判している訳じゃない)–現実にどうやって成立させるのか、なにが問題系として孕んでいるのかと問われると沈黙を受け入れるしかない去年の「せんだい」のように
もちろんのこと卒業設計で扱うコンテクストは自分で編集可能だ。よって現実に起きている問題系を恣意的に取捨選択し、フリースタンディングな状況もつくりうる、そうしたとき建築は何を示したのか、その批評性は建築という枠組みの中に閉塞されてしまうとおもう。
もったいない、せっかく他言語に対しての視野が広がった状況で再帰的に建築に閉じこもってしまうのは。
最後に責任問題については青井研のゆげちゃんがかいた文章
の最後の部分を引用すると
原発問題をはじめとした合意形成の複雑さを孕んだ問題系に対し、立ち向かう勇気のスタンスという部分があり、すごい共感した、
卒業設計は「なぜその線をひけるのか」
その問に対し真摯に答えるべきコンテクストを用意すべきだなぁと。
思いました。