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touch

建築中心

振り返りそしてまた前進。

プロジェクトもいよいよ本格的になり僕の二十代もいよいよ建築の思い出がたくさんになってきた。

 

プロジェクトの方は施主との対話で与件を引き出し、生活動線を解いて行くとプロジェクトメンバーの書いた図面も大分収束してくるという面白さも感じた。

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情報が多くてよくわからなっかた(言語化が難しい)けれど振り返ってみるとなんとなく話が見えてきたかもしれない。

■敷地に関して

・塀によって所有区分が明確化されている。

・緑が多くそれらはその境界を越境するかのように生育している。

・基礎が通常より肥大化し、生活空間がGLよりも高い。

 

箇条書きにしてみたところ、「人間」が「モノ」により人為的に境界をつくりだし、「植物」や「その他の生物」がそれをやすやすと越境するという。言ってしまえば当たり前だが、そのこと自体が中々言語化が難しく捉え難い世界を作り出しているのかなと。

そしてこの特徴は窪地という地形が大いに関係していると、おそらく街としての排水システムの最終地点がこの場所になり、おおくの生態系が生育しているのなかの一つの主体としての人間なのだ。

 

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■与件に関して

・緑が見える仕事部屋。

・南面に多くの緑を。

・洗濯物が良く干せる。

・本15000冊を収蔵したい。

 

こちらはなるべく外部環境を内側に取り込みたいと言う要望と、またあらたな主体としての「本」を許容する空間をという話。

 

登場主体を整理すると

「人間」「本」「緑」というような主体がでてきた。おそらく「モノ」はそれらをつなぐあるいは、はなす主体となる。

 

 

ここまでなんとなく整理できた。

というと今まではとにかく人間のための空間をせっせと図面化していたといえるのだが、(つまり合理的な生活動線)

 

先日先生とのエスキスで「本棚」の扱いについて議論になった。

論点をまとめるとこんな感じ

門「本棚構造はなんのため?」

立「壁と本棚が一体的になることで囲まれた空間が比較的自由に使える。」

門「人間のための空間の論理に本の論理がレイヤードされるのは少し違和感がある。」

 

なるほどと思った。というのもプランを描いていると本棚が強過ぎて空間の許容としての冗長性がむしろなくなっていくような感覚があったからだ、なんでだろうと疑問に思いながらも、ただそのこと自体は確かな感覚で

「なぜ物理的な広さが担保されているのに生活のリアリティがいまいちない」という点を今までずっと考えていたからだ。

なんでだろうと思いつづけた僕に、先生は続けて長坂常について話してくれた。

 

先生曰く長坂常は「空間のバランスをとる」のが大変うまいのである。

[sayama flat]においては強いものと強いものを並列的に並べることなど複数主体を登場させ、戦わせることで結果的にニュートラリティを獲得するという。

 

一見すると恣意的な絵画的作業であるが確かにそう言う視点で見てみると彼の絵画的作業は平面計画いやむしろ生きられたときの情景としてのフラットな感覚を得るための作業と見れるかもしれない。

 

ただやはり、そのバランス感覚はやはりモノとして立ち上がったときの実体とあたまで考えるときの思想との距離をうめなければ話にならないと

 

またまた設計が楽しくなってきた。

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