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建築中心

忘れないうちに。

昨日のゼミで、先生と「hk3」(経堂の住宅プロジェクト)について議論した。

 

「hk3」は角地に建つ住宅なのであるが通りに対する二面だけでなく、裏側の二面、総じて住宅に隣接する四つの面に対し、いわば分裂症のように異なる構えを都市に向けている住宅で個々のファサードの振る舞いの決定に関しての具体的な議論に余地があると感じていた。

まずその手法として、近隣住宅の表層部分を切り取り変形し、通りに面するファサードを構成するのであるが、(一面は看板建築のエレメントを踏襲し、もう一面は家型のエレメントを踏襲している。)さらに裏側は、日射によって面的なエレメントを配列する変数を得ていることにより、裏側にも関わらずかなり、オープンな面を構成を可能にしている。

 

ここで疑念に残るのはデザインソースが建築のある部分において「街の表層部分」にあるということである。

特に「看板建築」のエレメントは既存の意味が解体されており、そこにあるのは看板と言う極めて抽象的な面的エレメントのみに限定されるからである。

 

僕はこのことが青井哲人先生がおっしゃっていた「小さなピクチャレスク」にほかならないんじゃないかと思っていた。

小さなピクチャレスクは日本の小住宅においてのコンテクストの読み方によっては、都市動態の趨勢に、ある規定度を与えることについての言及である。例えば、隣のファサードを踏襲することや、塀を連続させたりなどは新たなデザインボキャブラリーとしても見て取れるが、反対に都市の既存の構造を強化する問題も十分に孕んでいるということだ。

つまり言いたいことは、住宅の寿命など限定的であるのにも関わらず、その表層自体がデザインボキャブラリーの対象になりうるのかということだ。極端な例を出せば隣の建物が壊された瞬間にその記号性は意味も無く浮遊することになる。さらに説明を加えると、小さなとは物理的な実体としての小ささというわけではなく住宅単体がこの場合もつ批評性の射程の小ささに関しての形容とも捉えることが出来る。

僕はこのことをどう考えるかを先生に投げかけた。

 

先生の答えとしてまず出たのが

「hk3 」の狙いとしては先生は「近代への批判」にあるとした。ということだ。

おそらく近代という言葉を用いたのは、一つの強い原理を強要する姿勢の問題性を解いたものだと僕は理解している。

もう少し、詳しく言えば「敷地」という一つの強い枠組みの中での住宅がもつような批評性を「敷地」を超えメタ的に展開が可能ではという仮説による試みであるということである。

先生はそのことを【住宅の複数の「近傍性」の切断による独立的維持】によって可能であると説いた。

多くの説明が必要なので、一つずつ説明すると、近傍性はコンテクストという言葉で置き換えることが可能であろう。

例えば「時間的近傍性」、「生産的近傍性」、「物理的近傍性」とうような様々なクラスに分類される中で一つ例をとると時間的近傍性は都市の中での時間的な連続性を「看板建築」という系譜を敷地に召還させること(これは選択する形式が都市構造にクリティカルであるかというような点でまた議論が必要)により、成し遂げるのであるが、ここで注意したいのは、先生はある独立した近傍性の中で様々なエレメントに分解している点である。そのことはある独立した近傍性が様々な問題系と接続可能ということと同義である。つまり「部材単位」(例えば軸組構法やアルミサッシなど)に分解することで「経済」、「構法による制約条件」、「生産」などの既存のコンテクストに接続し、そこに自らの修正を加えることが出来るということである。(簡単に言えば選択の流動性を高める。)さらにはそこに批評性が加わることは一つの物理的な敷地と言う枠組みを超えた中でのメタ概念としての批評となりうる。

先生はこれらの近傍性が関係を取り繕うことはなく、いずれもバラバラのまま切断可能であるとした。つまり様々な変数が相互的関係を結ぶこと無く共存可能な状態を構築したということだ。

 

しかし僕は未だに疑問なのはそれらの近傍性は本当に関係を結ばないのかという点つまり「家型」という近傍性は「文化的」ないし「物理的」近傍性で定義されうるのではないかお互いの変数は密に関係しうるのではないかという点。

さらには僕は具体のメタ概念が把握しない限りは敷地と言う物理的制約の中に留まらざるを得ない近代的ジレンマとの格闘と見なさざるを得ないというような疑問が残ってしまった。

いずれにせよ、この議論はメンバー全員が刺激されたであろうし、

僕自身決して批判的態度ではなく極めて希望的な態度でこの問題をみているのは確かだ。

 

 

その後青井先生と飲んだのだが、二つのことを教えてもらった。

一つは「フレーム問題」、二つ目は「コンテクスチャリズムのふたつの側面」

 

フレーム問題は簡単に言えば、設計の際に射程となりうるフレームの設定である。

青木淳の「大宮前」を引き合いに出し説明すると、あれは住宅地であるが公共施設で様々な他者がくる可能性を様々なレベルで引き受けるためにプログラムを色や素材のレベルまでに解体し解くことであらゆるものを生け捕りにすることを狙ったものであると

さらにそのフレームは大まかに言えば「ピクチャレスク」か「古典主義」のいずれかの二つの性格を帯びるものであるとしたうえで、そのこと自体は決して問題ではなく、やはりフレームの設定自体が都市に向けられるものであるかの問題が最もクリティカルな点だと言うことだと思う。

 

80年代に席巻したコンテクスチャリズムにおいては「物理的コンテクスチャリズム」か「文化的コンテクスチャリズム」の二つの性格があるとし、

ヨーロッパにおいては隣の建物と同一のタイプの建物が自動生成されるものつまり、「軒の高さ」や「壁面のライン」という物理的なコンテクストに応じた形態をとっていくと必然的に建物が同一になるという規定度がある。

反対にアメリカのハイウェイなどは空地などの条件により、記号的(家型等のテキストが生成されるもの)を引用するのみになる。

東京では建物が近接しているのでやはりこの二つのケースが手法として存在するが、いずれにせよ建物の新陳代謝の際には、いずれにせよ巧妙に操作した建物でさえ空虚な記号や空虚な形態に成ってしまう危険性があるのである。

 

うーん、勉強不足である。

 

 

また考えることが増えてきた。