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建築中心

分かりにくさはどこまでも分かりにくい。

 

新建築 2015年 06 月号 [雑誌]

新建築 2015年 06 月号 [雑誌]

 

 6月初めての更新。(なるべく一週間に一回はしないと・・。)

今月の新建築の月評にて、403architecture[dajiba]の辻氏が青木淳の建築は「分かりにくい」というような表現を用いていたが、全くの同意である。

 

誤解を恐れずに言えば、設計者は空間を体験する際、(ここで重要なのは設計者として)ある秩序を発見することで「解法としての建築」を共有することを望む場合が多い。例えばこの壁はどうしてこの色なんだというような質問をするのは、建築がほとんど設計者の決定に委ねられる部分に依存するために、その思想がいかに民主主義的倫理から外れていないかを確認する行為と同義的な意味を持つ。(つまり設計者の独善的な形になっていないか)つまり「解法としての建築」というのは設計者の意図の射程からみた建築といえる。

そしてその解法が有効だとすれば、それらは共有資源になりうるし空間の秩序を把握するための鍵となるために「思想」が「モノ」へと昇華するプロセスに介入が可能になるわけである。

 

青木淳の最近の建築はしかしながら、ある原理的な秩序を持たない「ボトムアップ的」建築を趣向していると思う。つまりはある一つの絶対的な秩序(それは時に図式や強い字構成とよばれるような)に様々な設計要素が回収されない方向を目指して、特に大宮前体育館は「バラバラ」なものを「バラバラ」なまま共存させる事を意図するとなると、ある一つの強い原理というものは解体され様々な要素を並列的に扱う事により複数の論理が輻輳し合う結果の建築をめざしたものである。

 

よって個々の解法つまり大宮前でいえば例えば「壁の湾曲」の意図を聞いたところで、大宮前の空間の秩序など把握できないのである。

 

それもそのはずで、青木淳は意味的な発散的状況を生み出すことで、ある一つの強いイメージ形成を阻止していることを明言している。

それはR・ベンチューリがいう「多義的」な空間とは、また異なり、空間にある全ての要素から意味を拾っても一つの意味に収束せず、疑問符が付きまとうような状態を目指すものであると僕は思っている。

 

イメージ形成は青木淳がいうような「遊園地」に回収されてしまう。

空間の秩序が完全に把握される事はある一つのイメージが共有され、その場の質も固定化されてしまうからであろう。

よって分かりにくさというのはどこまでも分かりにくいのであり、青木淳であって分かってもらおうともしてないのは確かなことであろう。

 

このことを踏まえ坂本一成の設計論を読み解くと同様な内容があるのに気づく。

たとえば坂本はコンクリートに白ペンキを塗った事で概念的な意味は消されども、その表面のテクスチャーから様々な意味が発生してしまう事実を目前にし、物質の意味の消失の不可能性に気づくのである。

そして彼は部材レベルでのコノテーションを消失した後に構築された空間を「環境」というレベルで実現する事を目論む。

コノテーションはモノを対象として観察した時に生じる、より高次の暗示的意味であり、六本木ヒルズを見た時、人は「建物」だという印象の他、「金持ちが住んでいそう」などのメタな意味を帯びる。

(メトミニーなんてレトリックなどはコノテーションの効果そのものであろう。)

脱線しそうなので話を元に戻します。

 

坂本の場合は柱に付随する象徴的な意味=例えば大黒柱などのような意味を消す事を目指したのである。

そのような部材の配列、構成によりニュートラルな空間の質=つまり環境(そこには象徴性が帯びない)ものを目指したというのは(構成、部材のはなしは青木淳はしない)青木淳の方向性と結構似ているところがある。

 

ここからは僕の個人的な仮説なのであるが、「両者ともにTillmans(http://tachi-archi.hateblo.jp/entry/2015/05/22/235832)的な質」を目指しているのではないかと僕は最近すごく思う。

 

個々の写真のように部材レベルでいけばあるテキストが発生されうる(コノテーションは無くして)、しかしそれらが関係性を結ぶ時、対象がもはや個々の写真に依拠するというより、むしろ関係性が対象自体になるということが大変に面白い。つまりある建築に付随する断片的な記号が意味するものは対象としてみるのであればあまり意味が無く、それらが関係性の中に位置していればそれらの記号性ははじめて環境化されうるのではないかと。

 

 

しかし関係性は決して「分かりやすい」カタチででるわけもなし、個々の記号は一旦取り出せばコノテーションを消し去る際の恣意性(おそらく大宮前の湾曲した壁もそのような意図があったのでは)で厚塗りされ、それ自体のみが議論の中に取り込まれてしまうというようなことがおこりうる。のかなぁと

 

・・・・ここまで言っても釈然としないままだけどね。関係性ってなんだ?って感じで。