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touch

建築中心

刹那さのさきに

 

 

東京の体験は表層的な断片の不連続さを彷徨う中での自己により生み出された虚像の集積としての体験に他ならないと伊東豊雄は言っていたが、こればかりは概ね同意をせざるをえない。

 

それはまたはWolfgang Tillmansが描くような世界そのもののようにも思える。彼は一つのテーマに沿って写真を撮るのではなく、ボーダレスな世界をその写真(一見して何の関連性も無いものの集合)のバラバラな配列に投影させる。つまり都市が生み出す無数の断片化されたテキストを我々は無意識的に受容し、それらを可能な限りつなぎ合わせる事である実像(虚像なのだけれども)を希求するのであるが、それはあくまで刻一刻と生み出される無限のテキストを前には意味が無効化されてしまう。

 

無限と生み出されるゴミ山の中(有用なのかも無用なのかも分からない)から一つの鍵を手に入れたとして、それが何の鍵であるのか、それともそれ自体鍵であるのか、という確信を得られないままに私たちはゴミ山を漁るしかないのである。

それも極めて刹那的時間の中で、それらは行われる。立ち止まっていてもテキストのログは更新され続ける・・・・

 

銭湯に行った帰りである。そんな事を考えながら地元のスナックのある通りを自転車で抜けようとしたとき、昼間では閑散(シャッター街)とする場所とは思えないくらい濃密な時間が流れていた。そこでは店のカラオケが通りにまで聞こえてくるし、客が店から出てくる途端、倒れてしまうほどに、深く飲んでいたり。。。

 

普段だったら無視しているはずだが、近すぎて鬱陶しいくらいの濃密な人間関係の前になぜか羨望せずにはいられなった。時間にしてみれば一瞬でもである。

誤解を避けると、ノスタルジーと現実を重ね合わせたわけではない、

 

ただ、ますます刹那的な人間関係を強いられる中に私たちはなにをみるのか。刹那のさきには果たして何があると言えようか・・・

 

湯冷めしたので寝ます。