touch

建築中心

空間言語

 

ゴールデンウィークに代々木公園に足を運んだのだが、そこでの体験が面白かった。

ランニングをしている人たち、打楽器を叩く人たち、バドミントンをしている人たち、また傍らには読書をしている人など、原宿も近くにあるせいか様々な背景(人種、文化、思想等)を持った人がその空間を共有している事に驚いた。と書くと大げさなのだけど、僕自身も他の人たちの行為はそれこそ見ていて爽快で、異なる行為であるけれどちっとも煩いなという気持ちにはならなかった。

 

そこには共通の言語が存在しないにも関わらず、ある空間の秩序(人為的ではないけれど)みたいなものを「無意識」に共有していたと思う。

 

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観察してみると、生態系としての樹木はある程度の間隔(採光、通風のため)を必要とするために、ある同程度の広がりを持つ領域が作られ・・・(上図参考)

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その環境(あくまで人為的なのだが)を読み取り、人々はまたそれぞれの領域を干渉する事なしに共存していてるんじゃないかと。

あくまでも個人見解なのだが、対象として浮かび上がる(あくまで対象ね)これら二つの主体(人、樹木)の間には階層的な関係が存在と言う視座では見当たらない。

さらには主体の内的関係同士[(人)、(樹木)]でさえ見あたらない。つまり全てが精神的に並列的であるといえる存在とまで言えてしまうような感動があった、

あえて例えるならば、インターネットゲームの仮想空間上のプレイヤー同士の関係性みたいな感じ、、(やったことないけど笑

 

じゃあ何で共通言語もなしにそんな状態が作れたかと言うと、もうこればかりは分からないけれど実体を伴わない「空間言語」みたいなものがあるんじゃないかと、、

それは「空気を読む」みたいな意識的なものとは似ているけど少し違い、もっと無意識的なものでその空間特有のルール(制度的な意味には収斂してほしくないけど)があるんじゃないかと、そしてそれらは代々木公園のある断片的空間の「空間言語」が【α】だとすれば、はたまたハモニカ横丁の接近隣接されたオープンな居酒屋の手前の路地では【β】となり、そこにはまたべつの空間言語が存在するために振る舞い方も無意識のうちに異なってくると思う。

「空間言語」はじゃあメタフィジカルに存在するのかと言えば、そうとは限らないんじゃないかと(都市空間でも非常に少数だとおもう)、そして「空間言語」を建築に内在させるにはどうすればいいんだろうか。。。