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建築中心

『建築に内在する言葉』坂本一成 読書感想文その1

大学の4年にもなると、少しばかりか自身の空間の趣味が分かるような気がしてきた。(後述するが決して肯定している訳ではない。)

単に「お洒落で」というようなイメージで入学した建築学科であったが、泥臭くストイック極まりないその特有のパラダイムの中で揉まれるだけでなく、入学以前の様々な経験的な体験(空間だけでなく思想的な)も輻輳し、ある曖昧模糊な自身のイデオロギーの萌芽みたいなものが生まれ、それが自身の趣味的なものと関係しているかもしれない。

 

言いたい事は設計行為つまりはデザインは、天から突然降りてくる訳でもなく、または他人を模倣できるわけでもなく、自身の経験的蓄積の中から対象に投影するほかない。という事だ。

 

卒業設計終了後、一年間オーバーヒートし続けた僕は少しばかりか疲弊し、建築に対しものすごい気怠くなったが、ある種自己欺瞞的にまた頭を向けた。その中で読み始めたのが坂本一成の本である。

 

建築に内在する言葉

建築に内在する言葉

 

 

 帯に書いてある事を簡単に抜粋すると、

『空間は身体だけでなく精神をも沿わせるものであるので、なるべく押し付けがましくなくより柔らかく自由を感じさせる空間にならないだろうかと考えてきた。』という事だ。

 

 

この本の構成は二部構成になっており、

第一部には 「建築の修辞」

第二部には 「建築意匠の論理」

が書かれている。ハッキリ言って全て気が抜けないような内容であった。特に第二部は圧巻で、建築の部位やそれらが関係して構築される意味作用など、建築でのある象徴作用としての機能にスポットをあて明晰な分析を行っている箇所は何度も精読したい箇所である。

 

第一部の「建築の修辞」というタイトルから発せられる通り言語のように様々な意味を伴う対象の関係性ないし、そこから想像される比喩的な効果を建築における構成の中に見いだすという内容で、これだけ書いても何言ってるんだという感じは否めないが、実作を例に分かりやすい流れがあった。

坂本は70年代に住宅の設計を開始したが、70年代はいわゆる「閉じた時代」といわれ、公害問題をはじめとする環境問題を背景に建築家が都市から撤退し始めた年代で、同時期に伊東豊雄の「中野本町の家」(1976)や安藤忠雄の「住吉の長屋」(1976)といったような都市とは切り離されるような住宅が相続き発表された。

また坂本自身も初期の三部作「散田の家」、「水無瀬の町家」、「雲野流山の家」においては「閉じた箱」という入れ子構造つまり外殻と内殻を持つような構成であった。

無論そのような構成は空間の階層関係を作り出す故に、必然的に二つの空間の関係は上位と下位に分離され、使われ方も限定的になってしまう。そこで坂本はそれらの幾何学的構成を弱めるため、素材の意味を抽象化(同一の色ペンキで塗る等)する操作を施す。

また概念的には閉じた箱とは言えど、その開口部はそれぞれ非常に大きく、概念と現実の緊張関係が見受けられる。

 

つまり、外的なコンテクストに要請され、必然的に決定される形式に坂本自身の身体性や思考そのものが衝突し緊張を引き起こす事により、その形式自体が歪められるのではないか。

 

坂本の言説として諦観しながらも空間の意味の零度への標榜目指し、その中でも「固有性(制度や形式)に対する違反」や「象徴作用の喚起(一義的でない)」が主軸になっている。

 

最初に書いたように、趣味的空間とは原因論の帰結の現れである、つまりは自己認識する際に不可視のフレーム(思考ないし思想またはそれに付随する行為)が自分自身を規定してしまう。そのフレームは原因論を追求すればするほど漸次的に強固なものにならざるを得ないであろう。

しかし坂本はそのフレーム自体を相対化しようとしている。坂本の空間の決定ルールにおいては具体(ヒトや機能)が捨象され、それらの並び替えやズレなどで事後的に抽象度の高い意味が生成される。その生成の飛距離こそがフレームの相対化につながる部分という事だ。

 

長くなりそうなのでこれにて「その1」とする事にする。